天正18年(1590)徳川家康が江戸に入府の後、目黒地域は荏原郡に属し、
三田、上目黒、中目黒、下目黒、碑文谷、衾の六か村に分かれており、
幕府直轄地や芝の増上寺、東光寺、円融寺の寺領、旗本神谷氏領などが複雑に入り組んでいた。
目黒の地域は将軍の鷹狩の場となり、落語の「目黒のさんま」の話も生まれている。
目黒不動は将軍や江戸庶民の信仰を集め、門前町が賑わった。
江戸の発展に伴って近郊目黒の地域は、
激増した武家や商工人の消費生活をまかなう野菜の供給地として
江戸の町と密接なつながりを持ちつつ発展していった。
幕末の頃には駒場野の鷹狩場はしばしば幕府の軍事調練や砲術訓練の場となっていた。
慶応3年(1867)徳川慶喜の大政奉還により目黒を含む地域は武蔵県となって近代日本の幕が開かれ、
明治2年品川県に、明治4年東京府の管轄となり、明治11年には荏原郡に属することになった。
明治7年に八雲小学校、続いて菅刈・下目黒・碑小学校が設置された。
明治22年に六か村が目黒村、碑衾村の二村に統合された。
明治26年人口は目黒村3701人、碑衾村3245人で農家が大部分であったが、
明治29年ビール工場が、40年に競馬場が開設され、都市化への発展のいとぐちが開かれた。
関東大震災、目蒲線(大正12年)、東横線(昭和2年)の開通で、
これを契機として農地は宅地に変わり住宅地や商工業地域として急激に発展した。
昭和7年に合併して東京市目黒区となり、昭和18年東京都目黒区となった
昭和17年人口は21万3863人
昭和20年、戦災により区内の4割26,000戸が焼失し人口は三分の一に減少
昭和39年東京オリンピック開催の頃約30万人とピークに達した
昭和50年頃から地価高騰の影響で激減し
平成5年23万8581人
現在平成12年24万1312人
現在では、区内に12の外国大使館が置かれ国際交流も盛んに行われる近代住宅都市となりました。
特に最近では、渋谷区のビットバレー(情報技術産業の集積基地)の影響もあり、
インターネット・コンピュータ産業(情報サービス業)の起業が目立っています。